成果主義と教育

[id:REV:20040924#p3]にあるように、個人の才能、成果に立脚した純粋な成果主義があっても、全然OKだし、当然だと思ってます。ただ、今の自分が身を置いている企業という営利団体を考えたとき、

終身雇用制が崩れた今、自分で自分に投資して、成果を出した人間は勤務先をステップアップし、企業は「材料としての人材」ではなく、「成果を出せる人間」をスポットで雇うケースが増えていくんだろうな。

となっていったら、本当にそれで利益を追及できる団体でいられるんだろうか、と思うところがあるわけで。
雇用した人間に小額の投資をしてn年後に成果を得るほうが、n年後にその会社が求めている成果を出せる人を採用するより効率的なのかなと。完全に主観的な意見でしかないんだけど、自分が従業員の立場で投資してもらうなら、最小限の投資でも十分ありがたいと感じるけど、「成果」だけを求めて採用される立場だったら、自分が投資した全て以上の額を求めて当然という気がするんで。
もともとは、会社と個人はドライな関係でイイと思ってたんだけど、なんか、それのドライさをつきつめた姿が純粋成果主義であって、部品のように必要に応じてとっかえひっかえされる従業員なのかなぁって思えてきたら、違う気がしてきた今日この頃。
特に、クリエイティブな仕事をしていて、いいなぁと思う会社のGooglePIXARTransmetaの会社と従業員の関係を読むと、会社としての成果を最大限にする手段として、従業員個人の成果主義を純粋に追及するのはベストじゃないような気がするのです。
"1+1"を2じゃなく3にするみたいな、会社という個人の集合体であることを最大限に活かそうとするとき、そこに教育というのが重要な役目をもってくるんだろうけどなぁ。
難しすぎて頭飽和してきたんで、一休み。